同じころ、JR翡翠ヶ丘駅の、噴水前。
噴水を囲む鉄柵に寄りかかって、平日の真昼ゆえに人の行き来も少ない通りを、どこか楽しそうに眺める男が一人。
年齢はおそらく、二十代前半。
身長は平均並みで、全体的に細身。
スーツではなく私服だが、上から下まですべてを白で統一している。
流行りに合わせて染めているのか、耳を覆う程度の長さの髪は、銀というより、くすんで灰色がかった色をしている。
だが、少し固めの服装のせいか、本人の持つ独特の雰囲気のせいか、あまりチャラチャラと浮ついた印象には結びついていない。
ぱたぱたと、軽い羽音を立てて、どこからか飛んできた真っ白い鳩が一羽、男の差し出した左の手に舞い降りた。
男は、白い顔を、にこ、と微笑ませて、残った片手で薄い色のサングラスをはずす。
長めの前髪から覗いた瞳は、切れ長のくっきりとした一重瞼。
表情のせいで柔らかい印象を与えてはいるが、その瞳が、日に透けて赫い。
穏やかそうに微笑んだまま、呟いた。
「・・・・・・・やっと、みつけたよ?」
放課後の、翡翠ヶ丘高校。
ほとんどの生徒は部活に行くか帰るかしているため、どこの教室にも数人の生徒しかいない。
希望は、三年八組の教室の、閉まった扉の前で思案していた。
一応下校時間から時間をおいてみたけど、教室の中に、何人残ってるだろう?
新城咲夜一人か、それプラス男子生徒数人ならまだいい。しかし、万が一女子生徒がいたら、違う人を捜しに来たような顔をして逃げるしかない。あの男の熱狂的ファンなら、ただの面会希望者でも殺しかねない、ような気がしないでもない。
さきほども、どこから聞きつけたのか、希望が咲夜と昼食を共にしたと知ったらしい数組の見知らぬ女性たちから、羨望とも嫉妬ともとれるような視線を向けられながら、極力顔を上げないようにしてここまでたどりついたくらいだ。
先輩相手に喧嘩売るようなマネだけはしたくないなぁ・・・。どうか女子生徒がいませんように。
だいたい、あの男が悪い。聞きたいことがあったら教室に来いだなんて、かなり傲慢だ。なんか考えたら腹が立ってきた・・・。
「もしかして、大平希望ちゃん?」
そこまで考えたとき、突然後ろから名前を呼ばれて、飛び上がりそうなほど驚く。
振り返ると、見覚えのない女子生徒が立っていた。
ショートとセミロングの中間の長さの黒髪で、美人ではないが、やわらかく落ち着いた雰囲気の、どちらかというと優等生タイプだ。
「だ、だれ?」
思わず聞いた希望に、相手はにっこりと微笑んだ。
「咲夜に話は聞いてるわよ。あたしは相沢桃花。咲夜の友人なの」
一部では『様』付けで呼ばれてさえいる新城咲夜を名前で呼び捨てあつかい・・・。もしかしてファンクラブの総取?だとしたらわざわざ呼びかけてくるかなぁ・・・あ、もしかして牽制とか?そんなわけないか。だとしたら・・・。
ここに来るまでのことがあるので、少々疑心暗鬼になりつつ、意味がわからない、といった表情の希望に、桃花は困ったように笑ってからさらに続けた。
「えーとね、なんて言えばわかりやすいかな。つまり、例の件について、あたしから説明するようにって、頼まれたのよ」
そこまで言われて、希望はやっと理解する。
例の件。
昼休みに希望が咲夜に聞いた話のことだ。
だとすると、咲夜の友人だというのも本当のことなのだろう。いや、本当というか、一方的な勘違いや押し付けではなく、相互関係が成り立っているというか。
彼女なら信頼できそうだ。
できそうだ、が。
「―――ようするに、新城・・・センパイはいないんですね?」
人のこと呼び出しておいてどういうつもりだ、と、思わず怒りに口元が引きつる。
それに気付いた桃花が、苦笑しつつあわてて胸の辺りで手を振った。
「あ、誤解しないでね、べつに故意にすっぽかしたって訳じゃなくて・・・・・・咲夜ってよく消えるのよ」
桃花の言葉に、え、と希望が声をあげた。
「消える?」
「そう。昼休みとか、放課後とか、どこ捜してもいなかったりするの。たぶん、何かに巻き込まれてるんだろうけど」
「・・・相沢先輩は」
「桃花でいいよ?」
「桃花先輩は、どこまで知ってるんですか?新城、センパイの」
「新城、でもべつにいいよ?」
苦笑して、桃花が言う。センパイ、が棒読みだったことがばれたらしい。
希望も苦笑して、ほんの少し迷ってから、続けた。
「新城・・・の昔からの友達、なんですか?」
自分以外で咲夜の秘密を知っている人間がいることは意外だった。
というより、感情を表に出さないように見えるあの新城咲夜に親しい友人がいる、ということ自体が不思議でもある。
とはいえ、考えてみれば希望も、普段の咲夜のことは何も知らないのだ。
今日、咲夜に声をかけられるまでは、図書委員として遠目に見ることはあっても、親しく挨拶を交わしたこともない。
この人に、どこまで聞いていいんだろう。
「うーん・・・たぶん、知ってることはあなたとあんまり変わらないくらいかな?友達になったのは高校入ってからだよ。まぁ、話すと長くなるけどね。今のところ、学校内で例のこと知ってるのは、あたしとあなたと・・・あと一人だけかな」
とりあえず、教室に入ろう、と促されて、誰もいなくなっていた三年八組に入る。
このクラスは、三階建ての校舎の二階、東側の一番端に位置するので、このクラスに用事がある人間しか通らないし、誰かがここに向かってくれば足音ですぐにわかる。
ようするに、内緒話をするにはもってこいの場所だ。
「それで、あたしが答えられることなら、答えるけど」
窓際の壁に寄りかかって、桃花が言った。
希望はその正面に立って、自分の頭のなかを整理する。
「えっと・・・・まず、このあいだ私が見たもの、新城は妖怪って言ってたけど、それってなんなんですか?新城は、それを退治してるの?正義の味方みたいに」
希望の質問に、桃花は少し首をかしげて答える。
「あれね。あたしには見えないけど、妖怪って、無害なものもけっこういるんだって。だから、全部退治してるんじゃないの。直接人間に害を与えたりするのを、気まぐれだけど、できる範囲で退治してるんだって。別に拝み屋とかって意味じゃないみたいだけど、その筋ではけっこう有名みたくて・・・たまに依頼を受けたりしながらね。その妖怪の種類も、複雑であたしにはよくわからないけどね」
ごめんね、たいしたこといえなくて、といって笑う桃花に対し、希望は首を横に振った。
「あと、さっきの、何かに巻き込まれてるって?あ、これは、単なる好奇心だけど」
「うん。ちょっとね。昔から、なんていうか、ちょっかい出してくる相手がいるのよ」
桃花の言葉は、先ほどの質問のときよりもはっきりしない。
「ちょっかいって、それも妖怪?」
桃花は、ほんの一瞬視線を彷徨わせた。
今から自分の口に出すことに確信が持てないときの表情だった。
しばらく沈黙した後、桃花は言った。
「妖怪、じゃなくて、悪魔」
自分でも半信半疑といった顔で、桃花は笑った。
希望は一瞬硬直した後、まさか、と引きつった笑いを浮かべた。
「悪魔って・・・・・・・・真っ黒でコウモリの羽が生えてるアレっスか?」
自分で発した言葉に対し、半ば馬鹿にしたように言う希望に、ううん、と桃花は首を横に振った。
「全身真っ白。」
咲夜なら名前もわかるんだけど、と桃花が言ったとき、桃花の携帯のバイブレーションが鳴った。
希望と桃花が三年八組の教室で質問会を開いている時刻から、遡ること、約三十分。
新城咲夜は、翡翠ヶ丘駅の噴水前にいた。
噴水に向かって立つ咲夜の正面に、白ずくめの痩身の男。
左手に、たった今飛んできた鳩を止まらせて、薄い色のサングラスをかけている。
口元には穏やかに微笑を浮かべて、学校帰りの高校生が行き交う町並みから、正面に立つ咲夜へと視線を移したようだった。
昼間の眠たそうな表情が嘘のような顔をして、こちらを睨み付けている咲夜に向かい、優しく笑いかける。
「やぁ。久しぶりだね、咲夜」
鳩の止まっていないほうの指で、ゆったりとサングラスをはずした。
「少し見ない間に、身長が伸びたかな。うかうかしてると、僕も追い越されるね」
「何をしにきた、崇」
のんびりと世間話を始めようとする相手の言葉を遮って、咲夜がそう言い放った。
「わざわざ呼び出しておいて、そんな話か。俺はあんたの暇つぶしに付き合っている暇なんかない。」
きっぱりと言い捨てると、一瞬驚いたような顔をした崇が、ふいに笑い声をあげた。
「今回は、君の邪魔をしに来たんじゃないんだ。少し、協力してあげようと思ってね」
「信用できない。あんたに協力してもらうことなんてない」
切り捨てるように言って、さっさと背中を向けようとする咲夜を引き止めるでもなく、笑顔のままの相手が、ただ一言、呟いた。
「火眼金睛」
咲夜は、不審気な顔をして振り向いた。
「・・・なかなか面白い友達ができたね」
「?なんのことだ」
首をかしげた咲夜に、相手は穏やかに微笑んだまま。
「なんだ、気付いてなかったのか。放っておくと、悪魔に狙われるよ?」
「それはおまえ自身のことか?」
悪魔というのは。
あからさまに敵意を向ける咲夜に対しては、さぁ、と言ってはぐらかす。
「まあいいや。まだ不完全だしね。それより、お茶でも飲まない?おごるよ」
「断る。」
「冷たいな。戒真にも挨拶をしようと思ったのに」
言った途端、咲夜が崇の胸倉を掴んだ。
瞬間、旋風のようなものが巻き起こり、ぱし、と音を立てて、相手の頬のあたりに細い傷がついた。
なおも微笑んでいる崇の頬に、つ、と一筋の血が流れる。
「綴喜には、手を出すな」
咲夜の、猫のような虹彩を持つ瞳の、鮮やかな翡翠色が、危うい光を帯びた。
それは、明らかに敵意だった。
滅多に感情を見せない咲夜の、苛立ちを超えた怒りだった。
「・・・・・風の力か」
胸倉を掴まれたまま、崇が言った。
「今の一瞬で僕を跡形もなく切り刻むぐらい簡単だっただろうに。威嚇にしてもたいしたコントロールだね。・・・・・・・・・・・・・冗談だ。君の保護者に手は出さないよ」
半ば嬉しそうな声音の相手を解放して、咲夜は鼻を鳴らした。
「消えろ。今この場でおまえを殺さなかったのは、人目を気にしただけだ」
時と場合によっては、いつでも切り刻んでやる。
言い残して、咲夜はその場から背を向けた。
背後から、クックッと、押し殺したような笑い声が起こる。
「嬉しいよ、君は少しも変わっていない。人間くささも、その内にある残忍さもね」
崇は、頬の傷を指で拭った。白い頬が、鉄錆の色に汚れた。
「ヒントをあげよう。『Ose』が来ている」
振り返らない咲夜の背中に向かって、そう投げかけた。
それは、人ごみの中ではまぎれてしまうような、独り言に近い囁きだったが、聡い咲夜の耳には届く音だった。
「せいぜい回りに目を配ったほうがいい。大切な仲間に、変化がないようにね」
その言葉に含みを感じて、咲夜が噴水を振り返ったとき、そこにはすでに誰もいなかった。
ただ真っ白い鳥の羽が、数枚風に散っていただけだった。
『Ose』が来ている。
ほんの一瞬、その言葉の意味を思案し、たちまちはっとしたかと思うと、咲夜は携帯電話を取り出した。
第3話