友人の家のロフトには、猫が住んでいる。
「ごめん、和也。僕は今からバイトなんだ」
学校帰り。
三日前に借りた本を返すために、幼馴染の家に向かった。
ほとんど産まれたときからの付き合いで、訪ねるのにわざわざ連絡したりしないのはいつものことだった。
しかし、今回はそれが失敗だった。
それならまた今度にする、と、和也が口に出す前に。
「周に、渡しておいてもらえるかな。ついでに、久しぶりに話でもしていくといいよ」
そう。
幼馴染は、二人いた。
顔立ちが整っている、という共通点以外は、全く似ていない、双子の兄弟。
弟が、いままさにバイトに向かおうとしているほう。
高崎翔。
日本人である父親の遺伝子を色濃く受け継いだらしい、黒に近い、しかし黒よりは僅かに柔らかい色の髪。
同じく、濃いブラウンの瞳。
少しだけ幼さの残る顔立ちは、同じ年頃の少年たちより少し高めの身長と相まって、精悍、とまではいかなくとも、いかにも運動神経抜群、といったような印象を受ける。
和也がなにか言う前に、翔は鮮やかに身を翻して、手を振って走り去ってしまった。
呼び止めることを諦めて、和也は玄関のドアに手を掛けた。
「よぉ。久しぶりだな、和也」
ノックして翔の部屋に入ると、頭上から楽しそうな声が聞こえた。
窓から外のやり取りを見ていたのか、その表情に驚きはない。
16歳という年齢の割に、低く籠ることのない、高めの声。
見上げると、翔の双子の兄が、微笑んでこちらを見ていた。
高崎周。
翔の双子の兄。
幼い頃から体が弱く、何かというと熱をだしたりして寝込んでいた。
今も、学校にはほとんど通わずに、こうして家にいる。
欧州風のこの家は、部屋の数は日本家屋の比ではない。
双子の部屋も、もちろん別々に用意があるというのに。
周は、翔の部屋のロフトに住み着いていた。
住み着いている、というのは、とても的を射た表現だと、和也は思う。
食事も就寝はもちろん、風呂とトイレ以外は、一日のほとんどの時間を、この少年はその場所で過ごしているのだ。
和也は、昔からこの少年が苦手だった。
何故かといわれてもわからない。
が、英国人だったという母親の血を、一身に受け継いでいるかのような、抜けるような白い色の肌。そのくせ、柔らかそうではあるが、どこまでも暗い色の、漆黒の髪。そして、それを裏切ってぞっとするほどに冴えた、凍青の瞳。
ほとんど外に出ることがないせいか、年齢の割に華奢で小柄な体も、この少年をさらに『人間』というカテゴリから遠のかせているような気がした。
和也は、周が感情をむき出しにした様子を、いままで一度も見たことがない。
まさに、人形のような少年だった。
「退屈してたんだ。俺と遊ぼうぜ、和也」
猫のように伸びをして、周は横にしていた体を起こした。
「俺は・・・本を、返しにきただけだから」
やっとのことで、和也はそれを口にした。
ロフトの上の猫が、少し首を傾けて疑問を示す。
「本?あぁ、翔が持ってったやつか。」
その言葉に、和也は僅かに違和感を感じる。
「持ってった?」
あぁ、と、周は、いつものように口元に歪んだ笑みを浮かべた。
これが、彼の笑い方だ。
もともと、恐ろしいほどに整った顔をしているこの少年のことだ、もっとにっこりと笑ったら、どんなに綺麗に見えるだろうと、いつも惜しいように思う。
「それは俺の本だ。まぁ、俺が買ってきたってだけで、翔も読んでるみたいだから、所有権はどっちでもいいんだけどな」
これは以外だった。
周がいつもなにかしかの本を持ち歩いていることは知っていたし、棚の中にある蔵書のほとんどが周の本であることも知っていたが。
「周って、オカルトっぽい本、読むんだ」
周が普段持ち歩いている本は、科学や数学、鉱石の図鑑など、どちらかというと理系に分類されるものが多い。
それに引き換え、今回翔から借りた本は、幻想動物に関する本だった。
とはいえ、実在する動物を組み合わせて作ったらしい、リアルな剥製の写真なども載っているような、趣味が悪いといえば、悪い本だ。
「オカルト、か。まぁ、たしかに、幻想動物なんてのは、科学的に無理のある組み合わせってのもあるが、なかなか興味深い可能性を切り開いてくれるからな。思いもよらない発見がある」
周の答えは、はっきりとしない。
和也の手から受け取った例の本を、ぱらぱらと捲っていく。
「ジャージー・デビルにウォルパーディンガー、翼有る猫、ジャッカロープ・・・どれもこれも、できそこないの珍獣だな。」
実在したところで、何の役にたつというのか。
ぶつぶつと呟いて、自らが寝転ぶロフトの上に、分厚い本を放り投げる音がした。
「………まるで俺のことだ」
「…え?」
最後に呟かれた言葉に、和也は思わず声を上げる。
「日本人でもない、それでいて英国人でもない。日本にいても英国にいても異質な存在でしかない。本当に俺は、なんのために生まれてきたんだろうな…」
翔のように、少しでも日本人らしい容姿に生まれていれば。
「俺の人生も、少しは変わっていたのかも知れないな…」
「でも、周の瞳は、すごく綺麗だ」
反射的に。
和也はそう口にしていた。
自分がなにか言わなければ、周が消えてしまうような気がしたのだ。
そんな和也の言葉に、周はらしくなくきょとんとした顔をしてみせた。
「…そんなことを言われたのは初めてだ」
少し照れたように。
周が笑った。
その笑顔を、初めてみたような気がした。
いや、実際初めて見たのだと思う。
和也は、急に恥ずかしくなって、周から目をそむけた。
「和也、外に行かないか?」
しばしの心地よい沈黙を破った周の、突然の申し出に、和也は少しばかり動揺する。
あまりに唐突な提案であったこともあるが、主にその内容にだ。
普段から寝付いているせいもあるが、周はその外見が注目を集めるのが嫌いで、滅多なことでは外にでない。
積極的に外に出るといったら、図書館に好きな本を借りに行く程度だ。
その図書館というのも、歩いて十分もかからない距離にある。
「でも、大丈夫なのか?体調、とか」
心配顔の和也に、周は見おろした体勢のまま、ほれぼれするような笑顔でもう一度、にこりと微笑む。
「今日は、もともと体調がよかったから」
大丈夫だ、といって、立ち上がるための伸びをする。
見上げたロフトの、頭上には明かり取りの天窓。
鮮やかな青空が、丸い天窓の形に切り抜かれている。
「あぁ、いい天気だ。」
機嫌よく言った周は、階下で戸惑うような表情を浮かべている和也を、一方的に盗み見て。
いつもの、皮肉な笑みを浮かべた。
気高く、美しく。
そして、気紛れ。
ロフトの上の猫は、それでも。